こんにちは。スタイリストのオカダです。
今年で32歳になりました。美容師歴としては12年目です。
歴というので見れば20歳の頃に美容師になってから12年が経ったということですが、自分では経歴として○○年経ったからどうこう、ベテランだとか、まだペーペーだとか、別にそんなことどうだっていいと思っています。
「12年」というのが、経験として長いか浅いのかなのか、受け取る人しだいでどうにでも受け取れると思いますし、自分ではまだまだまだまだまだまだまだまだだなぁと思っています。
ただ、事実として「美容師になって12年経った」ということは変わらない事実なので、そういっているだけです。
そして、誰かに偉そうにモノをいえる立場ではないとは思っていますが、個人のブログなので好き勝手言わせて貰ってます。なので今日も好き勝手言わせて貰います。
「~~歴」なんて信用してないし信用しない方がいいと思う。
前置きが長くなりましたが、自分が思っているのはそういうことでして。
オカダは自分に正直な人間なので、表面的には繕っていたとしても、気持ちが態度に出てしまいます。
うそがつけないといいますか、うそがばれる、顔に出る、挙動不審になる、お世辞がいえない、、、、つまるところ不器用な人間だと自分でも思います。
なので、先輩・後輩の関係が強い、縦社会における関係作りは、とても苦労しましたし、今でも苦手です。
自分としては、同じ人間なんだからひとつや二つの年齢の差なんてそんなに関係ないとおもってるし、学生の頃に所属していた部活動とかでは「先輩だから言うことを聞かなければいけない」とか「後輩だから先輩の意見に反対しちゃいけない」とか、そういった理屈が分からなかったし、今でもいまいち分かりません。
昔を振り返れば、なんで自分がそうなってしまったのかには、学生時代の苦い経験があるからなのかもしれません。
「気合と根性の精神論」のトラウマ。
例えばオカダは学生時代にはサッカーをしていましたが、学生時代の部活動なら「上手いやつがレギュラーになればいい」し、それが「チームの勝利に一番近い」なら、一年だろうが三年だろうがそこに年齢の差なんて関係ないと思ってました。「チームの勝利に向かってチーム一丸となって」、それが目指すところ合理性が合って、僕はチームとはそうあるべきだと思ってました。
いまから十数年前の僕が高校生の当時、「チームとして強くある事」が求められているはずなのに、当時のチームにはどこか三年生がスタメン優遇される「年功序列」的な雰囲気があって、試合には優先的に年が上の先輩が出ることになっていました。
試合はというと、そんなことやってるもんだから、勝率もそんなに上がらずに、チームは暗い雰囲気になってしまっていました。そもそも論、年代関係なく後輩でも実力のあるヤツを出さないで試合に臨む方に問題があるだろうし、チームの勝敗を分けるコーチの采配が決して上手ではないことは、メンバーの目にも明らかだった。
だが、部活動においては、コーチの権力は大きかった。別に顧問の先生は居たのだが、その先生はお世辞にもサッカーを分かってるような先生ではなく、籍だけ貸してくれている状態だったので、指導はサッカー好きのOBのコーチが勤めていた。
僕が苦手とする感情論で物事をどうにかしようとする熱血コーチだった。「気合と根性」が口癖だった。僕は、チームの戦術と適材適所の選手配置と、チームの役割分担が大事だと思っていた。
試合にうまく勝てなくてチームの士気が下がってしまっていた頃、僕は試合の采配のことを当時のコーチに直訴した。おかしいと思ったことは言わないと気がすまないのだ。
そうすると、コーチは「俺に意見するとはなんだ。お前は今後試合で使わない」と、めちゃめちゃ怒られてボールにも触らせてもらえなかった経験があった。他のメンバーが試合に向けた練習している中、僕は延々グラウンドを走らされていた。今の時代だったら完全に「体罰」だと思う。
それから一週間が経ち、2週間が経ち、部活動の時間をただただグラウンドを走らされる月日は過ぎて行った。途中こんな部活辞めてやろうと何度も思ったが、「ここで俺が辞めたらコーチに負けたことになる」と、僕は負けず嫌いの性格からか、ぎりぎりのところで踏ん張っていた。
高校生の選手としていちばんいい時に、ボールにも触らせて貰えず、練習に参加もさせてもらえなかったのは今思い出しても腹が立ってしまうし、「コーチの権威」によって意見するのも許されなかった屈辱を未だに忘れてはいない。
結局その後もコーチの采配は変わらず、チームはばらばら。僕はというと、僕が来る日も来る日もずっとグラウンドを走らされている姿を顧問の先生が気付き、何事だとコーチとの仲を仲介して貰ったが時は既に遅かった。引退試合はもう目の前に迫っていた。
僕の青春である高校サッカーはそうやって終わっていった。オカダの人生におけるちょっとしたトラウマである。だから物事を気合と根性の「精神論」で片付けてしまう人は苦手だし、熱血系の「感情の押し売り」にはめまいがする。
たった何ヶ月か、たった何年か先に生まれただけで何が偉いんだろうか。
それ以降、僕は「先輩の権威」を主張してくる人とは分かり合えない事が多かったような気がする。もちろん、「先輩」が嫌いなわけではなく、逆に「先輩」から可愛がられるタイプだといわれる。ここでいうのは「先輩だから無条件で」というのが好きではないのだ。
「僕より何ヶ月か早く生まれただけなのに、なんでこの人のいうことを無条件で聞かなければいけないんだろう」
「僕より先に生まれただけなのに、なんでこの人はこんなにも偉そうなんだろう」
「僕より先に・・・」
と、こんな具合に「先輩だから」とか、「先に生まれたから」という理屈で人よりも上位に立とうとする人間ははっきり言って嫌いだ。吐き気がする。もちろん、自分はそんな態度をとらないし取りたくもない。取ったら人生終わりだとすら思っている。
同じように、「自分よりこの業界にいるのが長いから」とか、「自分のほうが先に入社したから」といった理由で上位に立とうとする人間も、見ていて気持ち悪い。出来る限り関わりたくないと願う。
「もっと他に言うことないのかよ」と思うのだけれども、「年功序列」がまかり通るそういう価値観でしか生きてこなかった古い考え方なんだと思うようにしている。戦後の高度経済成長の時代はもう既に崩れ去ったのだから、その考えでこれから生きていくのはいささか危険じゃないかと余計な心配をしてしまう。
幸い、今はそんな人間は自分の周りにはいなくなったが、二十歳を越えた大人になってもそういうくだらない権威を使って人より上に立とうとする人間には、それ以外にその人よりも「他の優れたなにか」がないんだろう。かわいそうにすら感じてしまう。
自分で自分はこの程度の人間ですと言っていることに気付いていないのだろうか。
経験は時間によって与えられるものではない
大事なのは経験値とは、「○○歴(時間の経過)」ではなく、「自らが足を踏み出した歩数」によってカウントされていくものだ。
ただ時間が経過しただけでは、だらだらと無駄な時間を過ごしたところで、なにも経験は得られない。
経験とは時間が無条件で自分に与えてくれるものではない。無条件に与えられるものでもない。
何かが起こるのを待つのではなく、自分で小さな勇気を振り絞って、自らの意志で一歩前に踏み出すことこそが、自分で経験を積み重ねていく第一歩目だというのを忘れてはならない。
そうして「小さな成功体験を積み重ねる」ことで、自信に繋がっていて、さらに一歩、また一歩と、前へ足を踏み出すことが出来る。
時間が経つのをただ待っている人は、足踏みをしているのと同じだ。
同じ時間が経過してても、同じぐらい靴底は減っていても、回りを見渡しても同じ景色のまんまだろう。もうひとつ忘れてはならないのは、時間は有限であって、人は歳を取るということだ。
「このままでは一生このまま」だ。気付いて欲しい。
その足は他の誰のものでもない。そして、踏み出すか踏み出さないかも「自由」だ。
人生には「いま」しか存在しない。
自分の人生を動かせるのは自分だけです。
いまをいきましょう。
それでは。
オカダ アキヒロ


最新記事 by 岡田 彰大 (全て見る)
- プロとして家族からお金をいただくことの意味 - 2019年11月18日
- 起業したいって相談に来る人へ - 2019年7月5日
- サロン「iLii(イリー)」が出来て半年が経とうとしています。 - 2019年3月12日
- 100万円が手に入ったらどうするの - 2019年1月7日